柄酒造株式会社
安芸津とともに造る酒蔵
柄総一郎さんインタビュー
安芸津とともに在り、

1848年に安芸津で創業以来約170年間、清酒を醸している柄酒造株式会社。柄酒造の歴史と、たいへんな事態を安芸津の人びとと共に乗り越えてきた酒蔵の実情とまちへの関わり方について、9代目蔵元の柄 総一郎さんにお話をうかがった。
柄酒造の「於多福丸」と「関西一」
おたふく
吟醸酒の父、三浦仙三郎の軟水醸造法を受け継ぐ酒蔵の柄酒造。地元の方々に大切にしてもらいながら、米や水といった原料の力、麹や酵母などの自然の力に寄り添い、丁寧な酒造りをおこなっている。
当初の生業は、広島藩の設置した米蔵から各所へ米を輸送するという廻米であった。そこで1848年から、お米に新たな価値を付加するために酒造りを始めたという。当時輸送に使用していた船の名称が「於多福丸」であったことから、柄酒造の創業銘柄は「於多福」。今もなおその名は引き継がれている。しかし、蔵の外観にはその名は書かれていない。書かれている文字は「関西一」。これは、江戸時代、大阪より西は関西圏と大きく括られていたことから、江戸へ酒荷を輸送する際にわかりやすく「関西一」と明記し、名称から端的かつ明瞭にアピールしていたからである。



ところが時が進み、現代における「関西」は大阪を指す言葉として捉えられるようになり、「関西一」は大阪のお酒なのか、と問われるようになったことから、創業の「於多福」に銘柄名を変更したという。ところが「関西一」は、地元の人々とっては馴染み深く、古くから愛されていたため、「関西一」の銘柄名での販売も続けていた。この双方の意図や想いを慮るために複雑化した銘柄を、9代目蔵元に就任した柄さんが統一させた。
「2023年にラベルを全部統一させました。デザインやブランディングがスッキリ見えるように、全部銘柄を「於多福」にしたんです。ただ、大吟醸ではなく普通酒に関しては、地元のみなさんの声を大切にするために、昔からの「関西一」のラベルのままにしています。」
あたらしい「於多福」ラベルは、澄清な空のように、ハレの日を彩る佇まいをしている。これからの柄酒造の看板を担う、うつくしいラベルである。

家業を継ぐまでの揺らぎ
日本酒との出会いはポジティブなものではなかったと話す柄さん。しかし年齢を重ね、日本酒の魅力を感じ始めた頃、秋田の新政酒造の「No.6」のような斬新で真新しく個性的な日本酒が台頭し始めた。
「最初は絶対に家業を継がないと決心して家を出ました。だけど、「No.6」みたいな斬新なお酒が今後増えてくるなら、酒蔵事業も面白いかなって、ちょっとずつ思い始めました。一方で親父は、日本酒が斜陽産業だってわかってるから『俺の代で終わらせるけえ、お前ら好きなことせえ』って言っていて。だからずっと好きなことをしていたんですけど、抵抗せずに目の前でシャッター閉められるのもなんか癪だなって思い始めて。抗わんでいいんかなって思ったら、その拍車がどんどんかかってきて。5年くらい『帰ろうと思うんじゃけど』『帰らんでええよ』ってやりとりを繰り返していました。
そのさなか、西日本豪雨で被災したんです。」



被災によって見えた一筋のひかり
2018年に起こった西日本豪雨は、安芸津に大きな災いをもたらし、柄酒造の蔵のなかは、1mほども浸水したという。
「被災して1週間後に安芸津へ帰ってきたんですけど、被災した状況を見て、ああ、これは親父に頑張れって、そんなこと言えないなって思って。親父も親父で、被災した直後『まあこれで酒蔵畳んでも誰も文句言わんじゃろ』なんて言っていて。確かにまあこの有様ならご先祖さんも文句言わんじゃろ、ってことも思いながら、当時僕は柄酒造の人間ではなかったので、親父がどうするのか傍観していたんです。」
この深刻な局面に立たされたとき、一筋のひかりとなったのが、柄酒造を絶対になくさない、といった、地域の方々のつよい思いだった。被災した直後、「泥かきやるよ」と申し出てくれる地域の人が多数いたという。また、映画「恋のしずく」の撮影時でもあったことから、監督とスタッフ総出で家屋の泥かきをおこなってくれた。「綺麗な時を残しといてくれてよかったですわ」と8代目蔵元の宣行さんがそう言ったところ、監督に「そのために来たんじゃない」と怒られた、というエピソードもある。安芸津の人々が柄酒造の170年という歴史を心底大切に思っていたことを、柄さんは身をもって実感したという。伝統と継承というものの厚みと重みを、わたしたちにも深く感じさせられる。またその重みは、時として前進のための後押しとなることがあるのだということに、小窓から差し込むひかりのような希望を見出せる。


「周りの地域の人が親父のケツを叩いてくれて、親父も前に向けるようになってきたのが被災後1ヶ月。親父が蔵の修理の見積もりを東京の僕のところに持ってきて、『今なら引ける。これでやらんっていうんだったらそれでええ。でも直すんだったらこれくらいお金がかかるし、やらんって言っても誰も文句言わん。こんな状況だし、これで終わりにしよう。』ということを話しにきたんですけど、でも僕5年間くらいやるって言ってたんで、即答でやる、って言って。」
そうして柄さんは東京での大仕事を担った後、2020年に安芸津へ戻り、9代目蔵元に就任した。しかし2020年にも未曾有のウイルスが全国を圧迫していたが、柄さんにとっては絶好の機会だったと話す。イベントが軒並み中止となったことで、ひっそりと酒造りに勤しみながら、しっかりとお酒についての知見を深める時間がとれたのだという。酒造りに向き合った初年を経てからの柄酒造の売り上げは右肩上がりであり、広島県内全域に「於多福丸」は徐々に広まっている。
